七色の鳥へ真っ直ぐなうたを

    

「忌野、カラオケ行こうぜ」
 括弧をして真顔とでも表せばいいのか。そんな表情で、クラスメイトである彼女ーー百田は、机を挟んだ向こう側から僕を追い詰めるように顔を寄せてくる。近いと思う先、勢いに軽い恐怖を憶えた。僅かに仰け反って距離をとり、知らず視線は泳いでしまう。
「ンだよ、否とは言わせねェぞ。つーきーあーえーよー」
 乱雑な言葉遣いにも、たまに覗かせる駄々っ子のような面にも、嬉しいことに慣れてきた。勿論皮肉だ。皮肉ということにしておくのが自分の為だ。両肩を掴まれ、がくんがくんと揺さ振られながら、僕の頭の中からカラオケという単語はフェードアウトしていく。音痴ではないと自負するが、進んで歌おうと思う性分ではない。高校を卒業し、やれ合唱祭だ校歌斉唱だと煩わしいイベントの数々から解放されたと思いきや、大学ではこんな新手のトラップがそこかしこに仕掛けられている。進学して一年と数ヶ月経過しても尚だ。がっちりとホールド。今回ばかりは躱せそうにない。
「いーまーわーのー」
 がくんがくん。眼鏡がずり落ちてくる。工作室に巣食う変態である鷹野何某と違って、僕の眼鏡は伊達ではない。フレームも、流行ではない細い銀縁を長年愛用している。凝った細工のこれに歪みでも生じ壊れれば、同じものはもう手に入らないだろう。良い言い回しをするなら、物持ちがいいのが忌野家の美徳なのだ。流行に疎い訳ではない、気に入ったものを大切に使うのが僕の流儀で、本当にこの眼鏡だけは壊されたくないと、そういうことにしておく、否、事実であって。
「だから、分かったから、吹き飛ぶ前に、揺するのを、やめてくれ」
 百田は「分かったか」の段階、「ら」まで聞くことなく肩から手を離したが、脳が絶妙にシェイクされた僕のテンポは遅れをみせている。
「流石忌野。見込んだだけのことはある」
 眼鏡が曇れば明日も見えない僕は、ずり落ちたことで僅かに汚れたレンズを磨くべく半ば本能で鞄の中のクリーナーを探る。一歩下がって待っていた百田の表情は、クリアになった視界には口角が上がって見えた。
    ✽
「いらっしゃいませー!」
 ぺらぺらのリュックをだらりと背負い無骨なヘッドフォンを首に引っ掛けた百田と、みっしりと荷物の詰め込まれたショルダーバッグを抱えた自分。やけにミスマッチな二人組が、カラオケボックスの自動ドアに一瞬だけ映る。やたらテンションの高い店員の挨拶に、彼女は軽く手を振って応じた。
鈴木という名札をつけた店員は、にこにことしながらリモコン端末とマイク、ナンバープレートの入った籠を手際良く差し出し、灰皿を二つ添える。
「いつもの。ツレも同じでいい」
籠を受け取った百田は、すたすたと先に歩いていく。通い慣れた様子で入った部屋は二〇二号室で、僕は思わずわらってしまった。
    ✽
 荷物を置き、お互い向かい合う形でソファに座る。勝手にぎこちない気分になっている僕を余所目に、百田の方はマイペースを崩さず煙草を取り出した。一本を指に挟み、パッケージを差し出してくる。喫煙者同士、同じ銘柄を吸う仲ではよくあることだが、なんとなくの疑問を口にしてみる。
「歌う前に喫煙などしたら喉を傷めないか?」
 冷たい音を立てたかと思えば火を宿す、金属製のライターで紙巻の先端を炙り、深く吸って、そして吐き出す。溜息にも似た間が置かれる。
「ばーか、喫煙者は吸いながらじゃねェと歌えない傾向なんだよ……経験上は」
 最後は取って付けた印象だったが、何に呆れているのか本当に溜息だったようだ。倣って煙を吐き出せば、心地好い気だるさと身体が沈むような感覚に包まれる。ぴ、と端末の操作を始めた百田は、煙草を揉み消し迷う様子も無く選曲を終えた様子だった。ぴぴぴと響く電子音と暫しのラグ、モニターが切り替わり、伴奏が流れ出した。知っている曲だ。
 ロックサウンド、クレッシェンドな歌声が、アレンジなのか若干の拳を回し紡がれる情念歌。引き裂くような、悲鳴のような裏返り方を含ませ疾走する。圧倒されている間に、長いビブラートでその世界は終わってしまった。
 世界。それは、彼女の世界だった。原曲の世界とは違う。悔しいが、呑み込まれた自分が此処に居る。余韻と表現するには易い衝撃に浸る暇も与えず、狙い澄ましたかのようなタイミングでドアがノックされた。
「失礼しますー、メロンソーダお二つになります」
 仄暗い照明に照らされる深い緑を、入室した店員がローテーブルに置く。コマーシャルに戻ったモニターから聞こえるMCの声が、場違いに思えた。
「ドーモ。歌ってけよ鈴木」
「えー、わたしも忙しいんですけど」
 更に場違いだと思えてしまう言葉が鼓膜を打つ。カラオケ店員とは、客室で歌うものだっただろうか。少なくとも一般的には違う筈だ。
「これも仕事だろ、お前」
「ですよねー? いやあ、アイドル店員は辛いですよー」
 ポカンとしていると、店員も慣れているのかアッサリと対応している。流れ出したのは、有線でもよくよく耳にするアイドルソングだった。片手はマイクで塞がっているが振り付けまでこなし、曲が終わると店員は一礼して部屋を出て行った。悲鳴の情念歌から、きゅるきゅるしたアイドルソングへの落差。目眩く世界観に、置いてけぼりとなってしまっているのは僕だけか。
「面白いよなぁ……あ、鈴木ってこの店の名物店員なんだよな」
 店が誇る歌って踊れるアイドルバイターなのだ云々とうんちくを垂れながら、引き寄せたグラスのメロンソーダをさながらカクテルであるかのように飲む百田。カラオケボックスの雰囲気もあるのだろう、先刻から異空間にでも放り込まれたような錯覚が続いている。
「忌野も歌えよ」
 言いながら、百田の指は端末を滑る。ああ、次は、どんな世界に飛ばされてしまうのだろう。
    ✽
 百田は、僕に対して歌え歌えと催促しながら、煙草を吸っての小休止をしいしいではあったが幾つもの世界を唄った。コミカルな世界、幽かな世界。様々な世界を、彼女は歌の媒体を通じて演じて魅せた。
「七色の声と云うのか……所謂、団体一名様を直に見た気がする」
 正直な感想を述べると、百田の目付きは不穏なものになる。何本目だかの煙草を燻らせながら、纏う空気を変化させていく。カラオケを愉しむ女子大生の顔から、哲学者の表情へ。
「あたしはな、声に限ってかも知れないが本来の自分が解せないよ。質、唄い方、癖。ブームに乗っかって個性を出してみようとしたのに、反対に呑まれて自己喪失だ。声真似オウムが二転三転して、もう地声すら思い出せない。そんなキャラクターだって認識されてるんなら、あたしは禍鳥だ。知ってるか、七色の鳥は死を運ぶんだぜ?」
 くつくつと、本当に可笑しいことを語るかのように目付きが歪む。睨み据える眼光はカタチこそ微笑んでいて、この文学少女の成れの果ては度し難いと感じてしまう。
「うたえ」
 深読みをしてしまう声音に、僕の指は今回初めて端末に触れる。
「一曲だけだぞ」
 籠の中に放置されていた、ペアのマイクを手に取る。見出すことに執着してその意味を見失った僕へ届いた、沁み込む水のような言霊。僕に取って光たり得た詩が、君の光にもなり得るよう。僕が失った意味に求めたたものが、当たり前に存在していると履き違えられている光と水だった。土ばかり肥えて腐ってしまいそうな君を、照らせばいい、潤せばいい。
 柄ではないことを多くは語らない。ただ、唄う。難しくはない。真っ直ぐに、うたおう。


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