はぐれ雪

 眠れない。窓から見上げる空には夜半の月。止まない虎落笛が、耳から這入ってきては脳裏を引っ掻くようで在った。とうに布団に潜っていることは辞めた。ひとり寝を諦めたと言ってもよい。びょうと窓を撫ぜてゆく風に、思わずも身が竦む。

「にいさん」

 兄さん。兄さん。兄さん。このような時間に押しかけること、おゆるしください。おそろしいのです。不安で堪らなくて、傍に置いて頂きたくて、叶うならば、抱き締めてほしいのです。

「にいさん」

 ゆらりと立ち上がり、自室を出る。ぎしと鳴る床板はジンと冷えて、歩を進める度に体温が奪われていくよう感じた。暗く長い廊下は、陽の光のなか歩くよりもっともっと長く思えて、目当ての部屋の前へ立つ頃には、足も耳も頬も冷え切っていた。

「にいさん」

 痛いほどに冷えた脚を床につき、正座をする。絞り出した声は震え、僕のなんとも情けない気持ちに拍車をかけた。

「にいさん。起きていらっしゃいますか」

 こつんと響いた音は、いつも兄さんが立てる、煙草の灰を盆に落とすそれで、それだけで、僕は安堵して仕舞う。

「起きているよ。這入りなさい」

「失礼致します」

 礼を欠かぬよう。非常識な刻限であることは棚に上げ、静かに部屋へと身を滑らせ、逆手で襖を閉める。洋灯の、柔い灯り。兄さんは火鉢にあたることもせず、文机の前で胡座をかき、片手の煙管を持て余すような仕草をしてから、それを片付けた。

「どうにも寒くて敵わんな」

 くく、とわらう兄さんは、僕へ向けて手招きをする。躊躇う必要など何処にあろう。僕は此れを望んでいた。兄さんの隣へ腰をおろそうとすれば、ついと袖を引かれ、兄さんの腕におさまるかたちで座することとなった。ひやりとしたその胸元へ、頬を寄せて甘える。すると、優しい指に髪を梳かれた。

「こんなに冷えて、仕方の無い子だ。まァ、私もかわりはしない、か」

 ぎゅうと抱かれ、ぎゅうと抱き返す。頭のすぐ上で、また、兄さんがわらう。

「お前で暖を取るのも好いが、些か冷えすぎているぞ。少しだけ待っておいで」

 兄さんは僕を離し腰を上げると、押入れから布団を抱え上げ、てきぱきとそれを敷いた。

「サァ、寝るとしよう。お前が寝付くまで、どれ、おはなしでもしてやろう。昔のように、な」

 洋灯の灯りを兄さんが吹き消せば、窓から差し込む月のひかりがやたらと眩しかった。細身であるのに力のある兄さんに、僕の矮躯など軽々と抱き上げられて仕舞う。ともに潜った布団の匂い、傍らのぬくもりにしがみつくように身を寄せる。幼いころは、よくこうして眠ったもので在ったことを、茫と思い出す。肘をつき半身を起こした兄さんは、僕の背中をあやすようゆっくりと叩きながら、寝物語を紡ぎはじめた。

 *

 さて、はぐれ雪の話をしよう。今年も、もう随分と冷え込むから、じきに雪も降るだろうな。粉雪、綿雪、いろいろあるが、はぐれ雪がやってくるのは花弁雪の降る宵だそうだ。雪の日の逢魔が時、あの不吉ないろの夕焼けに誘われて、はぐれ雪はこちらへと紛れ込むのだよ。そして、宵へ向けてしんしんと雪を降らす。あの、音が喰われてゆくような気配はお前も知っているだろう。私はあれが苦手でなァ、と、さておき。はぐれ雪は、な。悪さをするのだよ。雪が音を食って仕舞うのだけでも、充分な悪さでは在るがね。嗚呼、悪さをする。聡いお前なら、もう、わかるだろう。そうだ、ヒトを隠してしまうのだよ、他の雪よりも、もっと、深くにな。それがまるで、自分がはぐれてしまったよう思えて仕舞うのが、はぐれ雪と呼ばれる所以だそうだ。

 あるところに、恋仲の男女が在った。それはゆるされない間柄でなァ、冬の、雪の日にだけ逢瀬を重ねていた。とある雪の宵、女がいつものよう人目を盗んで男に逢いにゆくと、約束の場所に男は居なかった。暫く待てど現れない男に、女はしびれを切らしたのだろう、探して歩くことにした。雪の宵だ。身体は冷えて、足など満足に動かない。そこへ、人影が過ぎった。雪深いほうへ、雪深いほうへと向かう人影は待ち人のよう見えて、女は必死で追い掛けた。何故だか、深まる雪へ近付くほど、冷えた身体は楽になってゆく。ところが、どんなに追い掛けても、人影に追い付くことが出来ない。はぐれるわけにはゆかないと必死で歩くが、そこで、だ。女は足を縺れさせて倒れ込んでしまった。すると、視界がひらけて、いつの間にやら男と約束をした逢瀬の場所に立っていたのだ。あたりを見回すと、男が自分に背を向けてな、雪深いほうへふらふらと歩いてゆくのが判ったのだが、何やら様子がおかしい。再び冷えてきた身体は辛くはあったが、女はそこで待ってみることにした。

 どれほど時間が過ぎたかは分からなかったが、段々と雪を踏みしめる音が近付いてくる。それは紛れもなく女の待ち人で、男は女を認めると、こう言った。何処へ行こうとしていたのだ、先に行ってしまうから、はぐれるかと思ったぞ……と、な。女も同じような思いだっただろうよ。

 まァ、悪さと云うより悪戯のようだが、そうだとも。待ち人、探し人のふりをして遠ざかり、追いかける者を迷わせるのだ。暫く付き合えば帰すところは、所謂神隠しよりは甘く在るらしい。だからか、隠し雪などではなく、はぐれ雪と呼ばれているそうだ。

 *

「……だから、な。お前も、花弁雪の宵に出掛けて私を探すなんてことをするのではないよ。と、眠ったか。よくもまァ、こんな怪談話で寝付くことが出来るものだ。……ぐっすりおやすみ」

――――――――――

      Back

inserted by FC2 system